母 啓子への想い。
先月 4月6日に
最愛の母が亡くなり
まもなく四十九日を迎えます。
頭では
いつか親は先に亡くなるものだということは
わかっていたはずなのに
あまりにも
突然で
あまりにも
唐突で
受け止められず
受け入れられず
気力がわかず
日常にさえついていけず
しばらく
身体と心が動かなくなりました。
母は、いつも朗らかで明るく
前向きで笑い上戸で ひょうきんもので
でも品があって
私にとって
目標であり
尊敬する存在で
大好きでした。
昨年の母の日。毎年恒例の魅川さんのショーを見た帰りに一枚。
子供5人を育て
自宅2階で 学研教室と ピアノ教室を開き
ときには、早朝 牛乳配達を
姉と私と母の 3人でしていたこともあります。
子供たちの学びたいことには
お金を惜しまず、いつも柔らかく見守ってくれる
強い母でした。
子供たちが大きくなってからは
全国を飛び回り
まさに 常に進化しつづける母でした。
また、父とは仲が良く会話も多く
老後は二人で全国縦断の旅に出ようと
これまで、15県巡っていました。
少しおっちょこちょいで
天然なところがある母は
私にとって、話題の宝庫であり
愛すべき存在でした。
琉舞に、ラテンダンスに、
いつもアクティブで
病気ひとつしたことない母が
昨年のサプライズ古希祝いのあと
病院の精密検査で
大きな病が見つかり
それから半年間
壮絶な闘病生活でした。
痩せ細った身体での
抗がん剤治療。
3ヵ月ほどで10キロ以上痩せてしまった母を
みているのは辛く、
すごく調子がいい日もあれば
ベッドに寝たきりの日もあり
一喜一憂する 日々。
私たち家族は 病院に付き添い 励まし
食事を口にしては
嘔吐する母の側で 洗面器を手に
胸が締め付けられる思いで
母を見守り続けました。
この半年
どれだけ泣き
どれだけ祈ったか分かりません。
病院に向かうまでの道のり
病室から出た後
そして、母が歩けるようになったとき
急変したとき
それでも、病室では
出来るだけ
明るく笑える話をするようにしていました。
母もまた、しっかり前を向いて
懸命に 病と闘いました。
その姿は、本当に誇らしいものでした。
最期は、私たち家族一人一人から
それぞれ 母への思いを伝え
母は、それに対して しっかり反応し
受け止めてくれ
そして ゆっくりと息を引き取りました。
いつも、笑顔で
なにごとにも前向きで
パワフルだった母。
それでも、決して良いことばかりではなく
17年前に、末の弟を亡くしたときは正気を失い
もう、2度と以前の母には戻らないと思ったほどです。
でも四十九日に「お母さんは家族の太陽ですよ。お母さんが明るく照らさないと
家族は元気になりませんよ」とお坊さんに
声をかけて頂いてから、母は元の明るいお母さんに戻りました。
今の私たちがあるのも
これまで、母が懸命に私たちを照らしてくれたからだと思います。
その背中で生き方を示し
そして、亡くなったあとも 尚
偉大さを教えてくれます。
お母さんが教えてくれた
たくさんのこと。
忘れないよ。
ありがとう。
頑張るからね。
安心してね。
母 玉城啓子の友人・知人のみなさま方へ
母本人の希望により
周りの方へ闘病中ということも
病気のことも 一切お伝えしていませんでした。
(周りの方へ心配をおかけしたくないという母の気遣いだったと
思います。お許しください)
そのため、未だ 母が亡くなったことを
知らない方も多くいらっしゃるかと思います。
数日前にも 母の携帯が鳴り
ダンスを共に習っていたという方からでした。
まったく知らなかったということで
動揺されていらっしゃいましたが
先日、急きょご焼香に来てくださいました。
四十九日は5月24日(金)です。
しばらくは、私が母の携帯を持っています。
なにかあればご連絡下さい。
次女 愛